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複雑性を紐解き、生活の質に転換する 大畑 素子

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日本大学 生物資源科学部 食品生命学科 食品栄養学研究室 大畑 素子 専任講師

香りとは揮発性のある有機化合物の混合物だ。例えば、コーヒーでは300種類以上もの香気成分が混在しているという。複雑な集合体としてではなく、それを構成する成分一つ一つを紐解いて扱う大畑氏。これまで培った自身の専門性を活かし、生理反応の解明に加え実生活との接続まで想像をふくらませ、仮説検証に挑んでいる。

メイラード反応研究の盲点

 食品の美味しさを左右する重要な化学反応として、メイラード反応がある。食品中に含まれる糖質のカルボニル基が、アミノ酸やタンパク質のアミノ基と反応し、色調や香りの変化をもたらす。肉などの加熱時はもちろんのこと、常温でもゆるやかに反応が進む。味噌や醤油の熟成時に見られる独特の色変や香りの生成がいい例だろう。非常にありふれた反応であり、調理とは切っても切り離せない関係だ。反応の元となるアミノ酸や糖の種類、反応条件等によって生成される香気成分は多様に変化し、その数は数百種類にも及ぶという。メイラード反応における香気成分の研究の歴史は長く、実に多くの研究成果から、一見すると研究はほとんど完了したかのように思える。しかし今、大畑氏は、焼肉の香りを嗅ぐとお腹が減るという現象から着想し、これの成分が人に及ぼす生理的な影響を解き明かそうと試みている。「誰もが普段から経験していることなのに、過去の研究事例がほとんどなかったのは驚きでした」。

血圧を下げる物質が加熱調理香の中に

 香りの主役となる物質は、そこに含まれる濃度だけでは議論できない。濃度が濃くても人の嗅覚では認識しにくい物質がある一方で、たとえ極微量でも認識されるものがあるため、香りの強度を分析する必要があるのだ。そこで大畑氏は、ガスクロマトグラフィ分析と官能評価の両技術を併せ持つAEDA法(*1)という手法を身につけた。「香りの強度は人の嗅覚に依存している評価基準なので、現在はまだ分析機器だけで主要物質を見つけることは難しい」と話す。この方法により、肉由来のアミノ化合物と糖の加熱時に生じるメイラード反応香から、4種類の主要物質を特定することに成功した。

 特定した4種類をラットに曝露したところ、甘いキャラメルのような香りを持つDMHF(*2)が、交感神経活動を抑制して副交感神経を優位に働かせ、血圧を下げることが確認された。「副交感神経である胃の迷走神経の活動が活発になるということは、お腹が減ったり、蠕動運動や消化吸収の向上にも繋がる可能性があるんですよ」。さらに、ラットで顕著な結果を示したDMHFを用いてヒト試験を行ったところ、瞳孔収縮や指先の温度上昇といった副交感神経の活動による変化に加えて、脳が活発なときに濃度が高くなる酸素化ヘモグロビンが減少したり、安静時などに脳内に現れるα波が出現することが分かった。つまり、焼肉の香りは生体をリラックスさせるといえるだろう。「これまで食品の香料は嗜好性を向上する目的で開発されてきましたが、それがもつ新たな生理的機能性にも大きな可能性が見えてきました」。DMHFの新規機能性をもとに、特許を出願しているという。

(*1)AEDA法…Aroma Extract Dilution Analysis法。試料から捕集した香気成分の濃縮物を段階希釈しながらガスクロマトグラフィ分離し、同時に分析者自身が匂いを嗅ぐことで主要成分を判別する。
(*2)DMHF…2,5-Dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanone

研究室から実生活での検証へ

 DMHFのヒト試験において研究対象者の疲労軽減や緊張緩和といった心理的作用も見えてきたことから、現在、香りがもらたす作業能率への影響を検証する大畑氏。「昨年、家政科で調理実習などを教えていた時、包丁作業に不安を感じる学生を多く見てきました。調理時に発生する香りは、食べる時だけでなく、作業時のリラックス効果ももたらすのではないかと考えています」。実は、包丁で物を切るという行為は、対象を正確に把握し、それに合わせて力のかけ方を調節するといった複雑な能力を要する。メイラード反応香は、人の認知機能や反射機能など様々な脳機能を向上させる可能性が徐々に明らかになってきていることから、包丁を使った作業の能率向上にも大きな期待を寄せているのだ。副交感神経の活性化という生理学的な研究成果を、日常生活の質の向上に活かすバックグラウンドに家政学的視点をもつ大畑氏ならではの発想だ。

 「私たちは食品を食べるとき、香気成分を鼻で嗅ぐだけでなく腸管内にも取り入れているのです」。嗅覚受容体は鼻の粘膜上だけでなく、消化管にも存在しているという。特に小腸は第二の脳と呼ばれ、腸管神経系と呼ばれる独自の神経系を形成しており、受け取った刺激をもとに蠕動運動を制御したり、様々なホルモンやサイトカインなどの情報伝達物質を生産して脳へ司令を送っている。「嗅ぐだけであれほど明らかな生理反応がおきるのならば、消化管の受容体に結合した刺激でも何かしら反応があるはずです」。今後、消化管の嗅覚受容体を介して摂食を調節するホルモンの分泌がどのように変化するのかを検証したいと語る。

 香りを構成する化合物の分析から機能性の生理学的評価、そして、その社会実装までを一貫して手がける大畑氏。さらには、新たな反応機構の解明までも目指す。「メイラード反応から始まった研究ですが、今は様々な香りに可能性を感じています。その魅力を多角的に引き出し、将来的には人へのセラピーにまで繋げたいですね」と話す。しかし、人が香りを認知する機構はまだ未知の部分も多く、嗅覚に頼った分析は欠かせない。今後、分析機器の発達により人に頼らない強度評価系が確立されれば、香りの利用が飛躍的に進むだろう。自在に香りを扱う世界を想い描く大畑氏の野望は尽きない。

(文・金子 亜紀江)

 

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